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06-124 修善寺の田んぼの稲刈(田んぼ報告18)

061241台風13号が九州から日本海に抜けることを願いつつ、雨空の下を小田急ロマンスカーに乗り込みました。
小田原では雨は上がったものの、箱根・伊豆の山岳スカイラインは霧の中です。
それでも、修善寺では何とか曇り空となりました。
稲の成熟状況からも、参加者の日程からも、今日中には稲刈を終わらせなければなりません。

061242雨模様の中、稲刈開始。
一反半ほどですが、人数からして、手刈り作業はかなりの重労働です。
天候状態から急いで作業をしましたが、昼になっても3分の1位しか出来ません。
間もなく、遠雷が近づき激しい雨となりました。
中断、暫し休憩です。

061243雷鳴が去り雨も小止みとなりましたので、稲刈再開。
雨模様で参加者が少ないこともあり、今日中に終了するのは不可能な状況です。
雨に濡れて疲労感が増し、また時間も意外と掛かることから、本日の作業は終了としました。
残りは機械刈りとすることにし、日程を調整することとなりました。

061244これが、休日利用の田んぼ活動の現状です。
無理をせず、楽しくやることが何よりも重要です。天候ばかりでなく、参加者の日程にも配慮し、協力し合うことが大切です。
いろいろな体験をしながら、修善寺でのコメ作りも一歩一歩前進です(06.09.18)。


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06-123 東京の中世の城跡巡り(3) 石神井城跡

061230東京を造ったのは太田道潅と徳川家康と思わ勝ちですが、中世の江戸氏・豊島氏・葛西氏の功績を忘れるわけにはいきません。
中世の城跡巡りは、忘れかけている彼等の存在を求め、その歴史を訪ねることが目的です。今日も、豊島氏を訪ね石神井城跡にやって来ました。
石神井城は、その豊島氏の本拠地でした。

豊島氏は、桓武天皇の子孫の秩父平氏の流れを汲み、平安時代後期に武蔵国豊島郡に土着、その地の豊島を名乗りました。
秩父平氏の流れでは、この南武蔵の豊島氏・葛西氏の他、中武蔵に畠山氏・河越氏、西武蔵は江戸氏・渋谷氏・川崎氏が力を伸ばしました。

<石神井城跡>
061231豊島氏は鎌倉時代末期頃に石神井郷に進出、1477(文明9)年太田道潅に滅ぼされる(江古田古戦場跡:06-113 妙正寺川を歩く(1)を参照)まで、南武蔵方面(今日の豊島・文京・台東・荒川・足立・北・板橋・練馬の各区)を勢力範囲とし、開拓を進めて来ました。
0612315石神井城跡は、今も鬱蒼たる森の中に当時の空掘・土塁が残されています。当時の城は、土塁と濠で囲い中に郭を築き防御施設としたものです。

<豊島山無量院 道場寺(曹洞宗)>
061232石神井城主豊嶋輝時が1372(文中元:北朝応安5)年、豊嶋氏の菩提寺として創建、墓所には最後の城主豊嶋泰経一族と伝えられる三基の石塔があります。
本堂は、唐招提寺金堂を模した重厚な堂宇です。鬱蒼とした境内には、山門・鐘楼・三重塔(総欅造)があります

<亀頂山蜜乗院 三宝寺(真言宗知山派)>
0612331394(応永元)年に建立された勅願寺。石神井城落城後、城内から当地に移転。後北条氏(寺田・制札)や家康(御朱印10石)の保護を受け、江戸時代には数十の末寺を所有。
参道に「守護使不入」の碑があり、徴税使も入れない格式を持っていました。由緒ある「御成門」「長屋門」が残されています。

<氷川神社>
応永年間(1394~1428年)、豊嶋氏が大宮の武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を祀ったことに始まると言われています。本殿は文政年間(1818~1830年)、拝殿は1901(明治34)年建立。長い参道の奥にあります。

<池淵史跡公園> 練馬区登録史跡
061235昭和31年に発見されて以来、4回にわたり調査され多くの遺跡が発掘されました。先土器時代(石器類)・縄文時代(竪穴式住居跡・土器)・弥生時代の他、中世の溝の跡・陶磁器類が発見されました。
現在は、埋め戻され区立池淵史跡公園となっています。

<練馬区郷土資料室>
061236練馬図書館のB1に郷土資料館があります。縄文から近世・現代までの練馬の歴史を学ぶことが出来ます。ここで、豊島氏興亡の資料を貰うのが目的です。
また、隣接の公園には、区内の「馬頭観音道しるべ」「庚申塔」が移設されています。

<石神井池>
061237面積約4万㎡・水深1m。かつては、三宝寺池から流れる川と水田地帯でした。周辺は、三宝寺池・石神井城跡を含む18万㎡が、石神井公園(風致地区)となっています。

<三宝寺池>
面積約2.5万㎡・水深2~3m。
中央にある浮島に生える沼沢植物群落(カキツバタ・ミツカシワ・コウホネ・ハンゲショウ)は、昭和10年に天然記念物に指定されています。
今や、武蔵野丘陵の湧水を誇った三宝寺池も深井戸から地下水を汲み上げて流しており、また残念ながら、この貴重な植物群も激滅しているとのことです。

途中で雨となり、探訪中断の止む無きとなりました(06.09.17)。

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06-122 根津神社御遷座300年大祭 

061211江戸時代、神田明神・日枝神社(当初はこの2社が隔年交代)・根津神社(宝永祭以降)の祭礼は「天下祭」(または「御用祭」とも言う/将軍の命により挙行)として、盛大に執り行われました。
寺社・町・勘定の三奉行が取り仕切り、神輿には江戸全町の山車楽車が供奉し江戸城内に渡御、吹上に於て将軍の拝礼を受けました。

061212この宝永祭の根津神社の神輿は、六代将軍家宣が奉納した大神輿3基で今なお現存、文京区指定文化財となっています。総漆塗り極彩色、特に台輪1.6m角の大きさは神輿としては最大級です。

0612132年に1度、本祭りの年にその内の1基が渡御します。そのため、3基全てを見るには、6年が掛かります。

061214今年は300年大祭に当たり、特別にこの3基全てと古式山車が揃い、当時の「天下祭」の様子が再現されました。
この祭りを見逃すわけには行かず、万難を排して駆けつけた次第です。

061215この大祭のために3基の神輿は、彩色・漆塗・錺金具等の大修理が施され、その美麗さは見事なものでした。
なお、以前にも紹介しましたが根津神社の権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等は、昭和六年国宝(現重文)に指定されています(06.09.17)。

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06-121 茂木の田んぼの稲刈(田んぼ報告17)

06012119月に入り、各地の田んぼの稲刈が始まりました。
先週の千葉県佐原の稲刈は、浜名湖合宿と重なり参加出来ませんでした。
佐原の稲刈は、当初2日の予定でしたが、生育状態から一週間延期されました。
自然を相手のコメ作りは、なかなか計画通りには行きません。

0601214今日は、栃木県茂木の棚田の稲刈です。
棚田は平野部の水田に比べますと、かなり厳しい環境にあります。
気温・水温・日照・地力が劣りますので、やや逞しさに欠けます。
棚田では、収穫より自然の中で農作業を楽しむのが目的です。
この点からも、参加者が最も多く賑やかな稲刈です。

0601212子供達は、稲刈もそこそこにトンボやザリガニに夢中です。
曇空ですが、コスモスやヒガンバナが咲き、山間の棚田には爽やかな秋の雰囲気が一面に漂っていました。
手刈りした稲は、竹で組んだ棚に掛け、ジックリと天日干します。

0601213昼食は、先週収穫したばかりの佐原の新米のおムスビが振舞われました。
新米の美味しさは格別です。同じ佐原の苗ですので、茂木も大いに期待されます。棚田のおコメはコクがあり、美味しいと言われていますので楽しみです。
田植・草取り・稲刈の3回の作業に参加した人には、収穫したおコメが分けられます。
かくして、今年の茂木での田んぼ活動は終了しました(06.09.16)。

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06-120 掛川城を訪ねる

061200新幹線で掛川駅を通過する度に、天守閣が聳える掛川城が気になっていました。
そこで浜松に行く機会に、掛川城に立ち寄ることにしました。
平成6年、日本初の本格木造にて復元された見応えのある城でした。
折りしも、NHK大河ドラマの山内一豊の城として話題となっており、園内にはドラマ館が開館し賑わっていました。


<掛川城>
061201戦国の文明年間に築かれ、11家26代の藩主の居城でした。山内対馬守一豊は6代目藩主で11年在城の間、天守閣をはじめ城下の整備に尽くしました。
原図に基づいて忠実に復元された城壁は、鉄筋コンクリートではなく白漆喰による本物です。
遺構としては、御殿(国重要文化財)・大手門番所(市指定文化財)・櫓・移築門・復元天守閣・門・土塁等が残されています。

<御殿>
061202藩の公式式典の場・藩主の公邸・藩の政務を司る役所です。二の丸に建てられた江戸時代後期の貴重な建物です。
廃城後、勤番所・兵学校・聚学校・女学校・役場・市庁舎・農協・消防署として使用され、取壊し寸前で保存されたのは奇跡的です。
現在では、国の重要文化財に指定されています。

<大手門>
061203楼門造りの立派な櫓門(間口12.7m・奥行5.4m・高さ11.6m)です。天守閣と共に復元されましたが、復元場所が無く、元の位置からは少し離れたところにあります。

<龍華院>
061204最初に掛川城が置かれたところです(掛川古城の本曲輪跡)。
その後、時の藩主北条氏重により、徳川三代将軍家光公を祀る家光廟(大猷院霊屋/静岡県指定有形文化財)が建てられ、龍華院が創建されました。

<龍尾神社>
061205掛川城の守護神として、歴代の城主の崇敬受けてきた神社。特に山内一豊は土佐転封の際、この神社の分霊を高知城近くに祀り、高知城の守護神として掛川神社と名付け崇敬したといわれています。
家康が掛川城の今川氏真を攻撃する際、本陣を構えたところです。

<大日本報徳社>
061206二宮尊徳の報徳思想を実践組織の総本部。道徳門・経済門を入ると古めかしい大講堂・仰徳館・淡山翁記念報徳図書館があります。大講堂は保存修復工事中でした。

<円満寺>
061207_1円満寺の山門は、かつての掛川城蕗の門(掛川市指定文化財)です。内堀の中の中心に位置する四脚門です。
なお、掛川城の大手三の門(玄関下御門)は、油山寺(袋井市)の山門となっており国の重要文化財になっています。

<天然寺>
061208一豊が、十六表地を寄進した寺。
日本一の大きさを誇る勇壮な掛川大祭(10月6~10日)の「仁藤の大獅子」は祭りの最終日夕方には、かがり火で照らされた天然寺境内で大乱舞をします。
旅上で倒れたオランダ商館員ゲイスベルト・ヘンミィの蒲鉾型の墓が残されています。

<緑の精神回廊>
061209防災・美観を兼ね揃えた「緑あふれる歩道ネットワーク」が、町の中心を流れる逆川沿いに作られています。掛川市の名所・旧跡が、ほとんどこの回廊にあります。
炎天下、「緑の精神回廊」を汗を掻きながら散策、真夏の想い出深い一日となりました(06.09.11)。

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06-119 浜松を訪ねる

所用で地方を訪れた時でも、時間の許す限り市内を歩くのが習慣です。
毎年、浜名湖畔にこの時期にやって来ます。
浜松城をはじめ市内の歩けるところは大半行きましたので、少し街外れを訪ねてみました。


<浜松市博物館>
061191入口にある巨大なナウマン象(複製骨格)に驚ろきました。
今ではナウマン象と言うと野尻湖が有名ですが、ナウマン象が初めて発見されたのが浜松市なのだそうです。ナウマンとは、フォッサマグナを発見したドイツの地質学者の名前とのことです。
学芸員の案内で、浜松市の古代から現代に至るまでを、短時間で学びました。


<蜆塚遺跡>
061192_1浜松市博物館に隣接の蜆塚遺跡は、重層の縄文時代の貝塚として国指定史跡となっています。その様子は、野外の断面観察施設のガラス越しに見ることが出来ます。
1713(正徳3)年、国学者杉浦国頭が『曳馬拾遺』に「蜆塚という場所で土を掘るとシジミの貝殻ばかり出て不思議だ」と記しているとのことです。
1877(明治10)年にモースが、大森貝塚を発見する遥か以前から、貝塚の存在は知られていたようです。
0611925縄文時代の集落遺跡を復元した家屋や移築した江戸時代の民家「旧高山家住宅」もあり、木々に囲まれた蜆塚公園となっています。

<犀ヶ崖古戦場>
061193武田信玄と徳川家康の三方原合戦は、余りに有名です。三方原で敗れた家康は、命からがら浜松城に逃げ帰ったと言われています。
その反撃の戦いが、犀ヶ崖の奇襲と言われるものです。犀ヶ崖は、浜松城の北側約1キロメートルにある深さ40m・幅50m・長さ2Km(当時)の巨大な渓谷で、今も鬱蒼とした谷が残されています。
0611935家康の策により、武田勢はこの谷に追い落とされ多大な損害を蒙りました。
この両軍の霊を祀るために清雲寺(宗円堂)を建て、その霊を慰めるために「遠州大念仏(無形民俗文化財)」が今も毎年続けられています。
犀ヶ崖は、三方原古戦場として昭和14年(1939年)に静岡県指定史跡となりました。

<犀ヶ崖資料館>
061194宗円堂は、「遠州大念仏団」の本部としても永く利用されてきましたが、無住後、犀ヶ崖資料館として改修されました。
館内には、三方原合戦及び遠州大念仏の資料・ビデオが揃えられ、ボランティア・ガイドの解説により、その歴史に触れることが出来ました(詳細は省略しますが、後日、この信玄の合戦を辿る旅をする予定です)。
リタイア後、名所・史跡のガイドとして活躍しているシニアの活動に大変関心を持っていますので、つい長居をしてしまいました。

<夏目吉信顕彰碑>
0611955犀ヶ崖の戦いで、家康を退かすため家康の身代わりとなって討死にした夏目吉信の巨大な顕彰碑が建てられています。
吉信は、三河一向一揆の時、捕えられて処刑されるところを家康に助けられた恩に報いるため、死に場所を求めていたとのことです。
危機に際し、何時も部下に助けられる家康の人柄に改めて関心を持ちました。
この周辺にはこの他、本多肥後守忠真(三方原合戦で殿を務め討死)の碑等いろいろな史跡があります(06.09.10)。


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06-118 東京の中世の城址巡り(2) 稲付城址

赤羽「稲付城址」から、王子「名主の滝公園」までを歩いてきました。
住宅地の中ですが、高台の木々が生繁っているところを目指して歩いて行くと、次々に目的の場が現れて来ます。
かつては山と谷が入組んだ、街道沿いの山村だったのでしょう、歴史を刻んだ高台の寺社が住宅地の中にミドリのオアシスとしてそのまま残されています。
当時の地形を考えたり、街道風景を想像7したり、楽しい散策でした。
主だったところを紹介します。

<稲付城址>東京都指定文化財(旧跡)
061181赤羽駅南口をでますと、イトーヨーカ堂の左肩に木々の塊が見えます。その一帯が稲付城址です。太田道潅が築いた戦国の山城です。江戸城と岩槻城を結ぶ岩槻街道の中継地として築かれたものです。この地点は、鎌倉時代には岩淵宿が、室町時代には関所が設けられ、昔より交通の要所でした。
目的地の稲付城址から、今回の散策を始めました。

<静勝寺>
061182稲付城の跡地に建てられたのが、静勝寺です。
境内の道潅堂には道潅の木造坐像(北区指定有形文化財[歴史資料])が安置してあります。厨子内に像高44・5cm、桧の寄木造の剃髪姿の道潅が左膝を立てて畳座に坐しているとの事です。毎月26日に開扉。
昭和62年の寺南側の発掘調査で、空堀が確認されたとの事ですが、どの辺りか知ることが出来ませんでした。

<普門院>
061183普門院の山門は、一風変わった山門(1307[徳治2]年創建)です。
この中国風の鐘楼門とインドブッダガヤ風の仏塔(共同墓地)が、不思議な雰囲気をかもし出しています。

<法真寺>
061184新しい山門が不釣合いですが、一歩山門を入りますと鐘楼・本堂が鬱蒼とした林の中にヒッソリと佇んでいました。

<香取神社>
0611845法真寺と並んでいますが、階段を避けたため思わぬ遠回りをさせられました。
8・9日には、例大祭(神輿渡御)が賑やかに挙行されるとのことです。

<鳳生寺>
061185大田道潅開基の古刹。本尊釈迦牟尼佛・右脇侍文殊菩薩・左脇侍普賢菩薩。
森の中の本堂では激しいセミの喧騒に、とても現代東京とは思えぬ、遠い中世江戸村に入り込んだ思いにさせられました。

<稲付公園>
061186鳳生寺と地続きの稲付公園は、講談社創立者野間清治氏の旧別邸跡地。野間氏の名は、公園前の坂に残されています。
ミドリ豊かな園内には、高齢者・区民の集会所があり憩いの場となっています。

<清水坂公園>
061187北区景観100選。北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用した山間の渓流と芝生の広大な公園(約4500㎡)です。田んぼ(43㎡)のある「自然ふれあい情報館」があります。稲刈は10月上旬の予定の由。

<十条富士塚>
061188古墳(推定)を利用して造られた富士塚。塚上には、ご神体を祀る祭壇がある立派な富士塚です。周囲には30数基の石碑があり、古いものは天保年間(1840年)のものがあります。現在も、6月末・7月1日に大祭が行われているとのことです。北区指定有形民俗文化財。

<地福寺>
0611885ハンセン氏病に尽くした大正天皇妃貞明皇后像・東京大空襲(王子被災)の碑を始め「千年の松(「新編江戸志」所載)」「地蔵尊」「茶垣の参道」等、初めて聞く話ばかりです。貞明皇后・郷土の語り部「椎の木」の話に感動しました。

<名主の滝公園>
0611891嘉永年間(1848~54)に、王子村名主畑野孫八が自邸に造った庭園。台地の斜面に切り開いた自然溢れる景観は、そのまま現在に残されています。王子7滝の唯一残る滝として有名な滝ですが、残念ながら本日は流れていませんでした。
鬱蒼と繁る回廊式の庭園は、深山幽谷の風情が漂っていました。

<王子稲荷神社>
0611810落語「王子の狐」の舞台として知られ、境内には狐の石像が多い。
毎年2月の午(うま)の日には、凧市が開かれ、多くの露店が並び賑わいます(06.09.07)。


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06-117 東京の中世の城址巡り(1) 葛西城址

061171「東京の旧五街道を歩く」が一段落したところで、東京の中世の城址を訪ねることにしました。
江戸東京に拘っていると、本当の東京を見失ってしまうのではないか、と言うのが発端です。東京には江戸城しかないと思いがちですが、中世の古城跡が数多く残されています。嘗ての関東の覇者の歴史を、訪ねてみたいと思います。

061172とても全部を廻ることは出来ませんので、取敢えず国・都・区の史跡に指定されている城址を先ず訪ねることにします。順路はありません。足の向くまま、気の向くままです。
予備知識も無いままに行き、そこで初めて歴史に触れます。現地で初めてその土地の歴史を知ることが、旅の楽しさだからです。

061173前置きが長くなりましたが、何の先入観も無く葛飾区青砥の東京都指定史跡「葛西城址」を訪れました。
環7を挟んで、「葛西城址公園」と「御殿山公園」に分かれています。「葛西城址公園」は、子供たちの遊び場です。「御殿山公園」には、「青砥藤綱城址」の石碑と解説板があります。

061174解説板によりますと、この地域は秩父平氏の流れを汲む葛西氏により治められて来ましたが、1538(天文7)年に北条氏綱により陥落され、下総に勢力を張る足利義明に備え、後北条の一支城として幾多の争乱の舞台となったとのことです。
江戸時代には、将軍の鷹狩の休息所(青砥御殿)として利用されていた由。
昭和47年、環7建設に伴なう発掘調査により、大規模な堀・溝・井戸跡が検出され、中世の城郭の存在が明らかとなりました。
平成10年、中世の城跡の貴重な史跡として、都の指定を受けました。

06117jinjya掲げられている復元図によりますと、中川を外堀とし幾重にも掘られた堀川を内堀とした広大な平城です。その下からは、更に1600年前の古墳時代の大量の土器が出土しています。
城内であった域内には、青砥神社・観音寺・法問寺などがあり、8日から3日間に亘り、青砥神社例大祭が盛大に挙行されます。

これだけの重要な遺跡にも拘わらず、地元でもほとんど知られていません。
地方なら、歴史公園として整備されて観光名所になるところですが、東京では関心も持たれません。多分、他の中世の古城も同様でしょう(06.09.04)。


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06-116 修善寺の稲刈準備(田んぼ活動報告16)

0611615よいよ待望の稲刈シーズンとなりました。
修善寺の稲の状況は、田んぼのライブカメラでも、たわわに実った素晴らしい稲の姿が見られましたが、現地に来てみると何時でも刈取りが可能な状況でした。
準備と日程の都合で、稲刈は18日としました。
2週間後となりますので、台風と育ち過ぎが心配です。

061162昼食をご馳走になり、午後から手刈り・天日干しのための、「ウマガケ」用の竹の準備をしました。
足りない分を切り出し、枝を落とし長さを合わせます。
都会の者には、結構、厳しい作業でした。
傍らの清流では、子供達が気持ち良さそうに泳いでいます。
のどかな山村の風景の中で、夏の半日をのんびり過ごしました。

061163作業後は、温泉で汗を流しビールを飲むのが何時もの楽しみです。
帰路、小田原で不足分のアルコールを補充しながら、話題は早くも来年のコメ作りについてです。2年目のコメ作りの反省が、3年目に向っての新たなる自信と期待へと膨らんでいきました(06.09.03)。


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